The winning entry has been announced in this pair.There were 8 entries submitted in this pair during the submission phase, 3 of which were selected by peers to advance to the finals round. The winning entry was determined based on finals round voting by peers.Competition in this pair is now closed. |
現代社会の特徴として、少なくとも先進国において言えるのは、人々が静けさを強く求めているにもかかわらず、どこにもそれを見つけることができないという事実だ。交通の騒音、鳴りやまない電話、バスや電車内の合成音声の案内、無人のオフィスでさえ鳴り響くテレビ――我々は気を散らす音の集中砲火を絶えず浴びている。騒音に疲れ果てた人類は、自然界や広大な大洋、あるいは意識を集中させることができる静かな隠れ家といった、対極の存在を求めている。歴史学教授のアラン・コルバンはソルボンヌ大学の研究室で、またノルウェーの探検家アーリング・カッゲは南極の広大な大地の記憶について、それぞれ執筆している。研究室も南極大陸も、彼らが逃避先として選んだ場所だった。 とは言え、コルバン教授が『Histoire du silence(沈黙の歴史)』で指摘しているように、過去と比べて現代の方が、より多くの音に満ちているわけでは、おそらくないだろう。空気タイヤが登場する以前、金属製の外周を持つ車輪や馬の蹄鉄が石畳の道にぶつかって立てる音は、耳を聾するばかりだった。人々が携帯電話の孤独に逃避を求める以前、バスや電車では賑やかな話し声が飛び交っていた。新聞売りは売り物をただ積み重ねておく代わりに声を枯らして宣伝していたし、それはサクランボやスミレや新鮮なサバの売り手も同じだった。劇場やオペラ座は喝采や掛け声で絶えずどよめいていた。田舎でさえ、農民は歌を歌いながら農作業を行なっていた。今では彼らは歌わずに黙々と作業を行う。 変化したのは騒音レベルではない。騒音については、過去の人々も絶えず不満を唱えていた。変化したのはむしろ、静寂が入り込んでくるような場所で沈黙から心をそらしてくれる事柄の量なのだ。ここにもう一つの矛盾が潜んでいる。なぜなら松林の奥で、何もない砂漠で、あるいは急に誰もいなくなった部屋で、静寂に包まれた人は、心地よさよりもむしろ落ち着かなさを感じがちだからだ。心に不安が忍び込み、ぽっかりと空いたなじみない無の空間を満たしてくれるものなら、火がパチパチとはぜる音や鳥のさえずりや木の葉が風にそよぐ音など、どんな音でも求めて、人は本能的に耳をすますのだ。確かに人々は静寂を求めている。しかしそれも程度によるのだ。 | Entry #23500 — Discuss 0 — Variant: Standard-Japan Winner
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現代の課題は、少なくとも先進国においては、人々が静寂を求めても、これを得ることができないということである。渋滞する道路はけたたましく、携帯電話はひっきりなしに鳴り、公共交通機関では車内放送が流れ、誰もいないオフィスでさえテレビが大音量でがなる。これらは止むことを知らない攻撃のように、人の気持ちを乱す。人類は騒音にほとほと疲れ果て、大自然や大海原、はたまた集中できる静けさが売りの静養所など、その対極にあるものに恋い焦がれる。歴史学者アラン・コルバンは仏ソルボンヌにある隠れ家に籠もり、ノルウェー人探検家アーリング・カッゲは荒涼とした南極大陸の記憶に浸り、それぞれ執筆した。両者ともに喧騒から逃れようとしたのだ。 しかし、コルバン博士が著書『沈黙の歴史』で指摘するように、現在の騒音レベルは、おそらく昔とそう変わらないだろう。タイヤが開発される前は、石畳の道を行き交う馬車の金属製ホイールや馬の蹄鉄が、街のあちらこちらで耳をつんざくような音を立てていた。人々が携帯画面に夢中になる前、バスや電車の車内は乗客のおしゃべりで賑わっていた。新聞の売り子は商品を積み上げるだけではなく、これでもかと言うほどの大声で客寄せをし、それは果物屋、花屋、魚屋も同様で、劇場やオペラハウスでは、あらゆる方向から歓声とやじが飛び交い大混乱に陥っていた。田舎でさえ、農作業に勤しむ百姓の高らかな歌声が畑に響いていた。今日、農業従事者は歌など歌わない。 どの時代においても、人は周囲を取り巻く騒音について常に文句を言ってきた。つまり、変化したのは騒音レベルではなく、むしろ、静寂が侵入した空間が人の心に引き起こす動揺レベルである。ここに1つのパラドックスがある。静寂が空間に侵入してくると、それが松林の奥深くであろうと、無機質な砂漠の真ん中であろうと、突如として誰もいなくなった部屋であろうと、私達はそれを歓迎するよりも、狼狽してしまうことが多いのだ。不安な気持ちが湧き上がり、この見知らぬ無の空間から救い出してくれるものならば、火が静かに燃える音、鳥のさえずり、葉のざわめき、何であろうと、本能的に耳の神経を集中させる。人々は静けさを求めるが、あまり静かすぎることは求めていないのである。 | Entry #23596 — Discuss 0 — Variant: Standard-Japan Finalist
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少なくとも先進諸国における現代のテーマの一つは、人々は静寂を望んでもそれを手に入れることはできないということだ。 交通の轟音、鳴りやまぬ電話の呼出音、バスや電車内のデジタル音声による案内放送、誰もいないオフィスでも鳴り響くテレビ、それらは果てしなく轟く砲音のごとく気を散らす元となる。 人類は騒音に疲れ果て、その対極にあるもの、即ち、未開の原野の中、大海原の上、あるいは静寂と精神集中を目的としたある種の静養所の中にいることに憧れる。 歴史学者アラン・コルバンとノルウェーの探検家アーリング・カッゲは、それぞれが逃避を試みたソルボンヌでの隠遁生活、南極の荒野の思い出から、そのように書いている。 またその一方で、コルバンが“A History of Silence” の中で指摘しているように、おそらく現代にはかつてほどの騒音は無いであろう。 空気の入ったタイヤが現れるまで、街路は石畳の上を走る鉄車輪や馬蹄の耳をつんざくばかりの金属音に溢れていた。 自主的に携帯電話の電源を切るようになるまでは、バスや電車では人々の話し声が鳴り響いていた。 新聞売りたちは、今のように何も言わず新聞を山積みするのではなく、サクランボやスミレや生の鯖の売り子たちがするように声高に商品を売りこんでいた。 演劇やオペラは声援と野次で大混乱だった。 地方においても農民たちは働きながら歌を歌っていたものだが、今は歌うことはしない。 昔と何が変わったかといえば、過去何世紀にもわたって人々が不平を言ってきた騒音のレベルが変わったというよりは、むしろ静寂が広がる空間で人々が「気が散る」と感じるレベルが変わったのだ。 もう一つ逆説が浮かび上がってくる。 というのは、静寂が、松林の奥深く、不毛の砂漠に、あるいは突然誰もいなくなった部屋に広がると、その静寂はしばしば歓迎されるというよりはむしろ恐怖をあおることが分かっている。 恐怖が忍び込み、耳は無意識のうちに、それが火の燻る音であろうと、鳥のさえずりであろうと、葉擦れの音であろうと、その正体不明の空虚感から救ってくれたであろう何物も聞こえなくなる。 人々は静寂を欲するが、そこまでの静寂は望んでいないのだ。 | Entry #22466 — Discuss 0 — Variant: Standard-Japan Finalist
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今日では、少なくとも先進諸国において、静寂が時代のテーマの一つとなっている。人は静寂を渇望しながらも、それを見出すに至っていないのだ。唸る交通音に鳴り止まない電話、バスや電車の機械的なアナウンス、無人のオフィスにさえ響くテレビなど、日々これらに悩まされ、頭を抱えている。人類は自ら生み出した騒音に疲弊し、そこからの解放を求めているのだ。そして野原に海、静けさや集中力アップを謳う癒やしの場などに向かう。こうした騒音から逃れるべく、歴史学のアラン・コービン教授はソルボンヌ大学へ移り、ノルウェー人冒険家のアーリング・カッゲは荒涼たる南極大陸を旅した。両者はそれぞれの経験から執筆している。 そのような中で、コービン教授は、著書『A History of Silence』にて、過去以上に騒音が増えているわけではないだろうと指摘する。空気タイヤが普及する以前は、都会の道は石畳を行き交う金属の車輪や馬の蹄が耳障りだった。携帯電話で個人の世界が形成される以前は、バスや列車は話し声で溢れていた。新聞屋は売り物を静かなスタンドに差しておくことはせず、大声で宣伝して回っていた。サクランボやスミレ、生サバ売りの行商も同様だ。劇場やオペラ座は歓声やらヤジやらで混沌の渦であった。田舎であっても、百姓が労作歌を口ずさんでいた。今では歌うことはしない。 変わったのは、これまでの歴史でも不満のあった騒音の強さではない。静寂が侵入者となり得る空間を満たす妨害の強さである。ここでもう一つパラドックスが浮上する。松林の奥深くや不毛な砂漠、突然人がいなくなった部屋などに静寂が侵入するとき、しばしばそれは歓迎されるものではなく、不安を呼び起こすものになるのだ。恐怖が忍び寄り、耳は本能的に神経を尖らせ、火の音や鳥の鳴き声、木の葉のざわめきなどを捉えてこの未知なる空虚感を脱しようとする。人は静寂を求めながらも、静かすぎてもならないのである。 | Entry #24104 — Discuss 0 — Variant: Not specified
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今の時代の課題は、少なくとも先進国において、人々はもはや静寂を切望しているにも関わらずそれを手に入れられないことである。轟く交通音、鳴り続ける電話、バスや電車内の録音アナウンス、誰もいないオフィス内にけたたましく騒ぎ立てるテレビ等は終わりの無い騒音と集中妨害だ。人類は自身をノイズで疲弊させながらもその正反対を望む―自然の中や広い海原、あるいは何かしら全くの静寂への逃げ道を。アレイン コービン歴史教授は自身の隠れ家であるソルボンヌ大学にて、またアーリング カグ、ノルウェー出身の探検家は荒れた南極大陸での記憶の中から、彼らが身を遠ざけようとした試みを記述する。 それでもなお、「沈黙の歴史」の中ででコービン氏が指摘するように、おそらくノイズは昔と変わらない量なのかもしれない。空気タイヤの前、街道は耳をつんざく金属縁の車輪や石の上を歩く蹄鉄の音で溢れていた。人が自発的に携帯電話を使って孤立化するようになる前は、バスや電車は会話が聞こえていた。新聞売り達は商品を完売させ、それも大声での宣伝をサクランボや花、鯖の売り子たちの様にしていたのだった。劇場やオペラは熱狂や応援の混沌だった。田舎でさえも、農民たちは労働しながら歌を口ずさむのだった。今や彼らは歌わない。 最も変化したのはノイズの音量ではなく―昔から不満の種の一つであったにせよ、いかに気が散りやすくなったかの度合いで、静けさが充満しうる空間を占めうるものである。そこにはもう一つのパラドクスが潜んでおり、静寂が満ちたとしたら―松林の奥深く、むき出しの砂漠、あるいは突然誰もいなくなった部屋―それはしばしばほっとするよりも居心地が悪くなることがある。恐れが忍び寄り、耳は本能的に何らかの音にしがみつき、炎が出すシュッという音や鳥の鳴き声、または木の葉のざわめきを、未知の虚無から救い出してくれるものを探す。人々は静けさを求めるが、極端なものはそうでもないのである。 | Entry #22967 — Discuss 0 — Variant: Standard-Japan
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人は静けさを望むがそれを得る人はいない、というのは、少なくとも先進国が抱える現代のテーマである。道路から聞こえてくる騒音、鳴りやまない電話の呼び出し音、バスや列車の機械的なアナウンス、無人の部屋でつけっぱなしのテレビ・・・。これらはエンドレスで常に耳障りだ。人は騒音に辟易しており、それとは正反対のものに憧れる。それは、自然の中や広大な海だったり、じっとして集中できるものだったりする。歴史学者のアラン・コルビン氏はソルボンヌ大学の避難所の体験記において、また、ノルウェー人探検家のアーリン・カッジ氏は南極大陸での廃棄物に関する回顧録において、騒音から逃れようとしたことを書いている。 しかし同時に、コルビン氏は「沈黙の歴史」の中で、騒音は昔と比べて増えているわけではない、とも指摘している。空気タイヤ以前の街では、石の道を通る金属リムのホイールや馬の蹄鉄が耳をつんざくような大音量で通行していた。携帯電話のおかげで一人が平気になる以前、バスや列車の中は話し声で煩かったし、果物や花、鮮魚の行商が大声で商品の宣伝をする中で、新聞売りが黙って新聞束を置くわけがなかった。劇やオペラは掛け声や声援で混乱した。また、地方に行っても農夫らが単調な仕事を淡々とこなしながら合唱したが、今では唄う農夫はいない。 変化したものの中で騒音のレベルを高めたものはそれほど多くはない。昔も騒音の苦情はあったのだ。しかし、気に障るという点において、今は静けさがそうさせている部分もあるのかもしれない。この逆説的な現象が起こるのは、森の中や何もない砂漠の中にいる時や誰もいない部屋に突然残された時に安心感より不安感が高まることが多いためである。恐怖心が忍び寄り、火や鳥の音、木の葉のさざめき、耳があらゆるものを敏感に聞き取るようになり、得体のしれない虚空から逃れようとするのだ。人は静寂を欲するが完全な静寂は好まない。 | Entry #24085 — Discuss 0 — Variant: Standard-Japan
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静けさを求めても見つからないのは、少なくとも先進国においては時代特有の問題だ。車の騒音にひっきりなしの電話の着信音、バス電車内の放送音に誰もいないオフィスのつけっぱなしのテレビと、これらは電源が切れることも妨げが止むこともない。人々は雑音に疲れ果て、荒れ地や大海原、時には静かで集中できる隠れ家的な場所にその逆を求めている。例えば歴史教授のアラン・コルバンは逃げ場であるソルボンヌ大学で執筆することで、またノルウェーの探検家アーリング・カッゲは不毛な南極を思い出すことで雑音から逃れようとした。
その一方で、「沈黙の歴史A History of Silence」でコルバン氏が指摘するように、恐らく今の雑音量は昔とそう変わらない。空気タイヤが普及する以前は、街は鉄車輪と石畳にぶつかる馬の蹄鉄の耳障りな音で満ちていた。携帯電話を使って自由に一人の世界に入ることができるようになる前は、バスや電車の中は会話で満ちていた。新聞売りは新聞を無言で積み重ねておくのではなく、声を張り上げて売り込んだ。それはサクランボ売りもスミレの花屋も鯖を売る店も皆同様だったし、劇場やオペラ座は掛け声とヤジで混沌としていた。田舎も同様で昔の農民は耕しながら歌ったものだが、今の農民は歌わない。 変化があったのは、何世紀にもわたって問題となっている雑音のレベルではない。静かになり得る空間を占めている妨害のレベルだ。ここにもう一つのパラドックスがある。松林の奥や何もない砂漠、突如として人気のなくなった部屋などでも分かるように、実際に静けさが訪れてみると人は嬉しく思うどころか不安に感じるものだ。恐怖が忍びよってくると、それが焚き火の音であろうと鳥のさえずりであろうと木の葉のそよぐ音であろうと、未知の空虚感から救い出してくれるものに対して聴覚は本能的に研ぎ澄まされる。人は静けさを求めているが、実際はそれほどまでは欲していないのだ。 | Entry #23105 — Discuss 0 — Variant: Standard-Japan
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先進国でせめて、世代のテーマは人々が沈黙を貪ているのですが、少しも沈黙を見つけることができません。交通の轟音や、絶え間ない鳴くて携帯電話や、バスと電車の中に通告や、真空でも事務所で騒がしいテレビも切りがない憂さ晴らしい放列です。荒野であろうと、広い海域であろと、平和をさがすや集中しているために隠れ家であろうと、人類は騒音に疲れているのため、その裏腹が志望しているのです。フランスの歴史者アレイン・コービンはソルボンヌの住む隠れ家で書きます、及びノルウェーの探検家アーリング・カッゲは南極の荒蕪地の思い出をきっかけに書きます。二人はそれぞれ有形無形の所に逃げていてみてました。 それにしても、コービン氏が「沈黙の歴史」で指摘しているように、昔に比べて騒音は恐らく超えてないでしょう。ニユーマチックタイヤの前時代に、都市の通りでは舗石道で金属で縁の車輪と馬蹄の足音でつんざくて打ち鳴らすの騒音があるのため、たまらないほど騒ぎになっていました。携帯電話で自発的に孤立するの前時代に、バスと電車の中に話々が騒げていた。新聞を売り手は、並べた商品を静かなに無視しずに、ところが高らかな声で能書いていた。チェリー売り手や、巣メれ売り手や、鯖業者がそのような販売してもありました。劇場とオペラ館には、励まするために陽気な混沌な騒げでした。田舎にも農民はのしのしと歩きながら歌っていた。現代では誰でも歌ってません。 変更されたことは、これまでの世代も不平を言った騒音レベルではなく、変更されたことは沈黙が侵入する兼ねないスペースを占める気晴らしのレベルです。松森の奥に、裸な砂漠の中に、唐突な引き払った部屋にも、沈黙は急に咲けたら、平和的よりもむしろ不穏になることのため、パラドックスが現れます。恐怖は忍び込みます。そして火のぱちぱち音を立てるのこと、鳥の鳴くこと、葉のカサカサ鳴くことなど、知らない空きに救うことを探すために人間の耳は本能的に何でも音のことが固定してるようになります。人間は沈黙が望んでいるけれども、あまり欲しくなさそうでしょう。 | Entry #24065 — Discuss 0 — Variant: Not specified
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